子供を生むべきではない二つの理由
1.生物という不平等なシステム。
生物は進化をします。
進化とは無数の突然変異を生み出しながら、環境に適応する個体だけが生き残っていくシステムです。
そのなかでは、無数の障害を持った生物を生み出す必要があります。
生得的なハンデを強いるということです。
では、優秀な個体だけをあらかじめ生まれるようにすればいいという反論があるかもしれません。
ですが、優秀な個体だけを生み出していくということは、相対的に既存の個体が劣ったものになるということです。
つまり、生物というシステムはそもそもが不平等を強いる生物なのです。
その不平等を、十人十色という言葉で誤魔化す人もいるかもしれません。
しかし、実際に障害を持った方はこの社会では健常者と全く同じ扱いはされません。
障害を持っているだけで、就職できない職業の方が圧倒的に多いです。
完全な平等を達成するには、そもそも子供を生まないという選択しかないのです。
2.差別の助長。
認知科学的に人間の根本的な認知能力は比較とされています。
比較とは、物事を比べ、もっと言えばそれに優劣をつけ差別するということです。
人間は本能的に差別をする生き物です。
どれだけ反差別を掲げている人間でも、深層心理的には、
障害者を見下しているはずです。
差別は人間が人間である以上、避けられない能力なのです。
なぜなら、差別をしなければ生物は死ぬからです。
食べられるものを食べる事を選択するか、食べられないものを食べる事を選択するか、
危険な道を選択するか、安全な道を選択するか、
自国の安全を選択するか、後進国の不幸の改善を選択するか
常に、人間はこれらの選択を行い、自分に有利ではない選択を差別しているのです。
ご理解いただけたでしょうか。
子供を生むという事は、意図的であっても、意図的でなくとも、
これらの格差を助長するという事です。
不平等や格差や差別をこの世から撲滅するには、子供を生まないという選択しかないのです。
自動筆記1
ボウフラの脳味噌だ。ナイト関数装置が日本の足下に滑空する。溶ける魚。アイヌ人の病理は豆乳に、山手線のボキャブラリーが貝殻の卵巣。体言止めの人間ポケット、未来時制のインディフェンデンスのアンダースタンド。ザチップス、ラヴューヘイチュー、ディサーポイントマッチメント、ぬるぬるゾウリムシ、総称命題的外患誘致罪より朝がキレイが良い。目を引っ張る飛行船。ラテン語的許諾で遊ぶスヌーピーと自殺教唆な子供編、愛を知る前に夜に入れ、哨戒するスルターン。乳児の怠惰は枕元の夕日。後置修飾のフィールファイン、窓口の甘い音楽、カリフ制ローマ帝国。シベリア行アポロ58号、ニューロ電卓の掃除、静寂の丸の内がくるしい犬とベロチューの探究。イルカが助動詞学部で山田天気の袋。アメリカン夏。おいしい我が家の恋、生物学的な文法。思い出のローカーヤタの暴言、アルファベット風俗で燻製作り、老いさらばえ委任状。退去手続きの統語分析、プラークリットで冬をこす孔子。シュノーケル付きエビデンス。タワー状の街。地平線を走る夕日。世界の思い出。ユングとマンコカパック、52回目のサンデー。純透明の斎藤。感無量と泣き叫ぶリンゴ。真偽の交友関係。バックミュージックの酸素。同名の辞書。何も言わない先生。駅前あるいはシャルルマーニュ。
【偏った意見ですので閲覧注意】
よく、「重言(馬から落ちて落馬、頭痛が痛い)が~」だとか、「外来語の本来の意味は~」といった「間違った日本語を使うな」という意見を目にしますが。
間違った日本語っていったい何なのでしょうか?
「三点リーダーはかならず二つにしなさい」
だとか
「文頭には空白を入れなさい」
だとかもそうです。
そもそも、「正しい日本語」なんてものはどこに存在するのでしょうか?
平安時代の古典ですか?
言語は、生物だとよく言われます。
現在使われている日本語は死んでいません。
口語の日本語は、標本のように固まったものではないので、正しいかどうかを決定するのはどうかと思います。
法律などの特殊な文脈を除き、「間違った日本語を禁止する」といった考え方は生き物を殺しているようなものだと思うのは、私だけでしょうか。
病院にいた頃を思い出す
少しブログを書いてみて思ったのですが、
ツイッターとはまた違った、好きな事について無限に書けるこの感じ、
入院していた頃を思い出します。
いい機会なので、自分が入院したときのことについて話しましょう。
自分は平成30年の梅雨、精神を取り乱して自殺をはかったため、
医療保護入院というかたちで精神病院に入院しました。
発端というか表面的な理由は恋人との喧嘩にあったのですが、それはあくまで表面的な理由です。
根源的な理由は、自分と他人が違うことに耐えられなかったことです。
どれだけ言葉を交わして、相手をわかったような気になり、相手を愛していても、ちょっとしたことで殺人にまで発展します。
お釈迦様や孔子だって、前頭葉に腫瘍ができるだけで、性格が凶暴化します。
何年もかけて、数え切れないほどの言葉で一時的な自分の感情を表現しようとしても、たった一秒の感情すら、言葉では抽象化されすぎて説明できません。
「貴方をころしたい」というときに紛れている慈悲の心も、
「愛している」というときに紛れている今までたまった鬱憤も、
言葉では説明できないということに絶望しました。
すべての言葉によって紡がれているものは、
他人の単語とコンコードして、自分と他人は同じなんだと思い込みたいがためだけにつくられた幻想なんだ、と思ったんです。
現に、この感情すら文にはできてはいません。
そこで、もう自分は、世界に還った方がさびしくないと思ったんです。
つまり、自殺です。
ざっくりとリストカットしました。
でも全然あまかったですね。死にませんでした。リストカットでは死ねません。
すぐに発見され、病院に行き、そのまま入院となりました。
その日が暮れる頃には、少し冷静になってきました。
人と話すと、ことばの幻想のとりことなって、孤独であることを忘れたような気になれます。
ですが夜、病院で消灯時間になると、自分が孤独であるという本質を、思い出します。
取り乱しました。
夜勤の看護師さんに迷惑をかけながら、鎮静剤?を呑み、その日は眠りました。
次の日、病院にはまだ一切の私物は持ち込めず、ネットは禁止のため、看護師さんに病院の鉛筆と紙を貰い、日記をつけ始めることにしました。
自分との対話です。
私は、そのなかでスア(自分の創作で登場する母性の神)について考え始めました。
私は、スアにすがろうと思いました。自分と他人という対立をスアに止揚しました。
スアは、真であり偽であり、静であり動でもあります。
全てを包み込む母性を持ちます。一元論です。ウパニシャッド哲学の、梵我一如にもにています。
自分はそもそも、世界とは分離されていないことに気付けました。
スアのおかげです。
私が今、死なずに生きているのは、死ぬ意味がないからです。
スアに、差異を止揚した意味を持たせる前は、死ぬことこそが世界(スア)に還る事だと思っていました。
ですが、今は認識が変わりました。
いつまでも、どこまでも、生きていても、死んでいても、
我々はスアに抱かれているのです。
このことに気付けて、本当に私は幸せでした。
まとまりはないですが、以上が私が病院で考えたことです。
見ていただきありがとうございました。